まとめ記事:第2回(3期目)課題本『セックスする権利』後半3章分
2023年7月開催回のまとめ記事です。
→過去のまとめ記事を閲覧できます。といっても、結局substackのページに戻ってくるのですが。各回ごとにまとめ記事が列挙されています。
→このアーカイブページにツイキャスのリンクを貼っています。動画の閲覧はそこから可能です(今回の閲覧用合言葉は「監獄主義」です)。
→まとめ記事には動画や音声ファイルは貼らずに、文字情報のみになります。
・異性愛は先天的なものではないし、自然なものでもない。自由意志によって選びとったものでもない。ということを異性愛者が認識するのは難しい。
→漫画やドラマも異性愛規範ばっかだし、異性と恋愛をして結婚をして子供を産んで、というのがあまりにも「自然なこと」として認識されてしまいやすい環境がすでにある。もはやそうする以外の「選択肢がない」にもかかわらず、私たちはそれを自分の意思で選択したものだと考えている。
→政府の少子化対策もピントがずれている。その施策の元となったアイデア(=家族留学)も資本主義だったり家族中心主義の軛から逃れられていないので、フェミニズム的な文脈で実践していたとしてもいつのまにか換骨奪胎されてしまう。
→異性愛規範=結婚制度は「国家」を維持するためのもの。それを否定するアナキズム精神が必要。結婚状態/家族状態がなくとも「支え合って」生きていくことは可能。シェアハウス的なあり方とか。
・予示的政治の難しさ
→来るべき世界にすでにいるかのように振る舞うこと=予示的に振る舞うことは必要だが、それだけに頼っていると「個人の変容のみ」で良しとしてしまい、「政治・社会の変容」にまでいかない場合がある。
→差別は道徳や思いやり(だけ)では解決しない、というのと類似するか。個人の優しさだけではなく、構造そのものを変えねばならない。
・ファッカビリティが高い者とセックスをすると自分のステータスも上がる、という幻想
→インセルの幻想=自分にはファッカビリティの高い者とセックスをする権利がはじめからあるが、その権利が不当にも奪われている(だから取り戻さねばならない)。
→そもそもインセル=不本意な禁欲主義者という言葉は、クィアの女性が作り出したフォーラムが元だった。不本意の意味がいまとは異なる(異性愛規範ゴリゴリの社会にあって不本意に禁欲せざるを得ないクィア、という意味合いだった?)。
・「女性」を定義したところで解放はされない
→同時に、定義すること自体が持つ暴力性=定義から排除される者たちがいることにも気をつけなければならない。「定義」よりも「説明」のほうが適切な場合がある。
→男性による支配が問題なのか、男性的なシステム=資本主義などによる支配が問題なのか。前者を意識するとトランス排除にも傾きがち。あくまでも後者の観点からアプローチすべき。
・教え子と寝ないこと(AO義塾と教育実習の実体験から)
→どちらも成人・未成年間の恋愛関係を生じさせやすい環境にある。
→男女関係なく、未成年側からのアプローチは存在する。
→教師-生徒間の恋愛については、自由恋愛の観点からではなく教育からの脱線という観点で捉える必要がある。
→大人は権力関係の不均衡さに気がついている(から悪用する者もいる)。子どもは気がついていない(から恐れることなくアプローチしてくる)。
・監獄主義的アプローチ=処罰の厳格化では問題は解決しない(どころか悪化する)
→恵まれた状況にある者はそれで救われるが、より下層にいる者ほど国家による強制力によって苦しめられることになる。
→監獄主義的な装置を一度作動させると、それが薙ぎ倒していく相手を選ぶことはできない。つまり弱者に対してこそ作動してしまうということ。
→貧困状態が犯罪を生じさせているにもかかわらず、そうして犯された窃盗などを処罰したところで、状況はなにも変わらない。
→セックスワークとも関わってくる。売買春を犯罪化しても、「いまセックスを売らざるを得ない者」の状況は改善されない。「いま生きている人の生活をよくすることと、よりよい未来を目指すための主張を譲らないこと、そのどちらかを選ぶ際には、前者を選ばなければならないということだ」(223p)
・セックスワークに従事することになるその「入り口」にもいろいろある
→ホストに無理やり貢がされてその支払いのために、というような流れもある。この構造自体が非常に不均衡。
→待遇のよいセックスワーク従事者もいればそうでない者もいる。その見えている景色の違いから、セックスワーク論への関わり方にも違いが出ているのではないか。
・フェミニズムは運動である
→「フェミニストは権力を放棄すると誓う必要はないが——いずれにせよ、そうするには遅すぎる——、権力を握ったときにどうするか、計画を立てておかなければならない。あまりにも多くの場合、権力をもったフェミニストは自分たちが暴力と深くかかわりあっていることを否定し、困難な選択をする必要がないかのように振る舞ってきた。一部の人を助けることとほかの人を傷つけること、象徴性と実効性、懲罰と解放のあいだの選択である。 多くの場合、権力をもつ人は、それをいかに行使すべきかを最も理解しにくい立場にいる。しかしだからといって、少なくともフェミニストは絶望する必要はない。フェミニズムは運動である。そこではつねに権力を手に入れられない人がいたし、これからもずっといる——まだ勝利を収めていない人、これまでただ生きのびることが勝利だった人。権力の影響を最も強く受けているこれらの女性たちにこそ、わたしたちは頼らなければならず、頼りながら従わなければならない。」(249-250p)
今月は29日(金)19-21時、課題本は『「日本に性教育はなかった」と言う前に ブームとバッシングのあいだで考える』です!