まとめ記事:第1回(3期目)課題本『セックスする権利』前半3章分
2023年5月開催回のまとめ記事です。
→過去のまとめ記事を閲覧できます。といっても、結局substackのページに戻ってくるのですが。各回ごとにまとめ記事が列挙されています。
→このアーカイブページにツイキャスのリンクを貼っています。動画の閲覧はそこから可能です(今回の閲覧用合言葉は「ホーム」です)。
→まとめ記事には動画や音声ファイルは貼らずに、文字情報のみになります。
・フェミニズムはラディカルな政治であり、ゆえに「ホーム」にはならない
→真に包摂的な政治は快適でも安全でもない政治であり、この本においても「不快と葛藤の中にとどまる」ことを意識している。
→とある社会運動内で地位ある人が何らかの差別をしているとき、それは必ず指摘されなければならない(が、実際にはなされないことのほうが多い)。
→とある差別に反対することが別種の差別を生むこともある。インターセクショナリティを意識すること。それが「ホーム」ではないということの意味。
・レイプの濡れ衣を着せるのは「女性→男性」ではなく「男性→男性」のほうが多い
→アメリカの話が具体例として出されていることもあり、階級や人種に対する差別との関わりが影響している。黒人男性は冤罪率が高い。
・「女性を信じよう」のジレンマ
→黒人女性による告発の難しさ。黒人男性からの被害を告発すると「黒人男性へのスティグマを強化するのか」と非難される。そのうえ「黒人女性は性的に早熟である・奔放である」というような偏見もあるため、告発しても信じてもらえない。二重の隷属。
・恵まれた女性と有色の男性のみ救われる運動になってはならない
→女性議員を増やす、というときに女性ならどんな女性でもいいのか。インターセクショナルな観点を持たないと、恵まれた女性と男性の議員のみ、ひいては同じ属性にある市民のみが優遇されることなるのではないか?
・加害者の罰し方について
→罰したいという感情が生じることは否定できないが、果たして罰することで問題が解決するのか、という問い。加害者本人を痛めつけることで満足感は得られるが、加害行為が生じるシステム=環境そのものの改善には繋がっていないのであれば意味がない。
・ポルノ規制は効果的か?
→男性の性暴力が女性を抑圧するのか(革命的フェミニズム)、資本主義的なシステムが女性を抑圧するのか(社会主義フェミニズム)。
→前者はトランス差別に傾きやすい。上記の懲罰的感情ともつながる?
→ポルノ規制の内情は不合理?(なぜこれが規制されて、これはOKなの?みたいなことが多い)
→前者をもとにした運動や規制は宗教保守や右派の主張に取り込まれやすい(現在の日本におけるLGBT理解増進法などは典型的か)。
→ポルノは権威=それを見たものが「強制的に」学習するようなものではないのではないか?というよりは「教育=模範解答」のようなものになってしまっていて、まともな性教育を受けていない者にとっては教科書的なものになってしまっていて、それでしか知識を得られないことが問題であるということ。ポルノが規範になるのはそれでしか学べないからであり、それが権威だからではない。よって、規制して禁止したところで正しくないセックスはなくならない。
・インセル=不本意な禁欲主義者という言葉は、当初は現在流布しているような意味合いや目的で生み出された言葉ではない
→『エンタイトル 男性の無自覚な資格意識はいかにして女性を傷つけるか』や『ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』にも言及あり。
・どのような人とセックスするのが己のステータスを上げるのか、という観点からのセックス欲
→ポルノマーケットで人気があるのは白人のブロンド女性。そういうのが「売れる」から資本主義社会ではそういうポルノが生き残りやすく、そうやって目に入りやすいそれらポルノを見ることで「白人のブロンドとヤる」ことがステータス上昇の条件とみなされていく、という循環がある。
・セックスワークも仕事だが、セックスワークも「ただの仕事」だと言ってしまうと見過ごしてしまう問題がある
→どんな仕事も「ただの仕事」ではなく、等しく価値がある。さまざまなエッセンシャルワークが軽視されている状況を悪化させないためにも、セックスワークイズワーク「だけ」で終わらせずに、社会構造に目を向けていく必要がある。
・自由な選択とはなにか?を考える
→自由なセックスとは?自由に選んでいるようで「選ばされている」のではないか?家父長制という仕組みの中で、つまり制限された選択肢の中で「自由に選んでいる」のかもしれないということ。
・セックスする権利とは?
→自らの存在の権利やエンパワメントを主張することと、他者のそれに干渉する権利を主張することは別物。インセルの主張する権利は後者=女性とセックスする権利の主張であり、その際に女性の(前者の)権利は考えられていない。
・ジャニーズファンにおける学習性無力感
→ジャニーズタレントを推すためのシステム自体が不均衡の上に成り立っているので、その中で生活をしていると「与えられたものの中で楽しむしかない」というような感覚になっていく。
→推し活は現実(の男性)に対する失望と表裏一体である。悪事に加担しながらでも推し活を「せざるを得ない」状況に追い詰められている、そこを考えないと問題の根本は変えられない。
今日開催の後半3章分のまとめは遅延がないようにがんばります!たぶん!